角の生えたモーセ像

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『モーセ像』(ローマ、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会)

ミケランジェロが1515年頃に作った彫刻です。

元々はユリウス2世から依頼のあった墓廟の一部にするために作られたものだそうです。

このモーセには、頭から2本の角が生えています。これは旧約聖書の出エジプト記のラテン語訳で、「モーセの顔は光を放っていた」と訳すべきところを、「角が生えていた」と誤訳されていたためだと言われています。

全然話が違ってきちゃいますよね・・。

ただし現在でも、イスラエルの国が出版しているユダヤ経典のタウラー(モーセ五書)には、「角が生えていた」と、二箇所にわたって記載があるそうです。

その角が生えた理由とは、「主と語ったゆえ」。モーセの時代に、この地域で頭上に角の生えた神はエジプトの女神だったことが有名で、ルネサンスの歴史認識と一致します。

どんな理由でも、とってもめずらしい角の生えたモーセ・・。

怒りをじっと耐えて抑えているといわれるこの姿は、神の怒りを具現化していると言えます。

ダビデ像

ダビデ像は、ミケランジェロが1501年から制作を始め、1504年に公開した彫刻作品です。

ピエタと並ぶミケランジェロの代表作で、ルネサンス期を通じて最も卓越した作品の一つだと言われています。
「力強さと若き人間の美しさの象徴」ともみなされる作品であり、芸術の歴史において最も有名な作品のひとつですね!

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大理石で創られていて、身の丈は5.17メートルもの大きさであるこの像は、旧約聖書の登場人物ダビデがモデルになっています。ダビデが巨人ゴリアテとの戦いに臨み、岩石を投げつけようと狙いを定めている場面を表現しているそうです。

元来はフィレンツェ市庁舎の置かれたヴェッキオ宮殿の前に飾られていたことなどもあり、のちに都市国家フィレンツェ共和国が周囲を取り囲む強大な対抗勢力に脅かされるようになったときには、「巨人に立ち向かうこの像こそ、フィレンツェを象徴するものだ!」という解釈がなされるようになりました。

ピエタ

彫刻の代表作は何と言ってもピエタですね。


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死せるイエスを抱きかかえながら、嘆き悲しむ聖母マリアの像です。

これはミケランジェロが自らの署名を書き入れた唯一の作品という・・・

ブログのタイトルはここから取ったのですが。


このシリーズの作品は全部で4種類あり

このサン・ピエトロのピエタはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂で見ることが出来ます。

建築主任

1546年には、建設工事中であったサン・ピエトロ大聖堂の建築主任に大抜擢!

当時、構造上の問題や度々の設計変更で工事は進んでいなかったんだけれど、ユリウス2世当時のプランを元に設計し直して、建設を進めていったよ。

1564年、ミケランジェロが亡くなったときは、大ドームの基部付近まで工事が進んでいたんだ~。
結構大掛かりな建設!大変(><)

最後の審判

何と1530年にメディチ家がフィレンツェに復帰!!

ミケランジェロはフランスへ逃げるよー!(笑)
クレメンス7世はミケランジェロのした事を取り上げて問題にしなかったと・・。
仲いいのか??どっちなんだろう・・。

クレメンスはシスティーナ礼拝堂の祭壇背後の壁画を頼むんだけど、ミケランジェロは完成させていなかったユリウス2世の墓廟の完成を切望して、壁画の仕事は気乗りしなかったらしい。わがままだなあ^^;

でもでも、次の教皇パウルス3世が強ーーく催促して急かした為、壁画『最後の審判』を1536年から1541年までかけて完成させたよ。頑張ったね!
下の画像がその壁画↓
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メディチ家との関係

1513年にユリウス2世が死亡すると、メディチ家出身のレオ10世が教皇に即位して、ミケランジェロにフィレンツェのサン・ロレンツォ教会の建築の為の設計を指示されたよ。

教皇は若い時、ミケランジェロと一緒に暮らした程の仲だったんだけど、扱いにくい性格のミケランジェロを避けて、フィレンツェに遠ざけたらしいよ。そこまで、避けたかったのか・・・仲がいいのか悪いのか・・。

ミケランジェロは嫌々ながらOKして、図書館やメディチ家礼拝堂の新聖器室などを建てるが、教会の外観は今も出来上がっていないまま。
1527年、教皇クレメンス7世の頃にローマ略奪が生じると、メディチ家はフィレンツェからまた追放されちゃうんだよね。

共和制に共感したミケランジェロはフィレンツェ共和国の築城長官に就任するんだけど・・・、これはね~メディチ家を裏切る行動なんだよね~。う~ん、やっぱり仲悪いんだ!(笑)

『天地創造』

1508年、今度はユリウス2世から墓廟の制作より先に バチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命令されたよ。なかなか忙しい。まあ、でも仕事が入ってくる事はいいことだよね?

だけど、自分は彫刻家で、画家ではないと拒否したらしい。(笑)
こだわりあるよね、わかる!

まあ、しぶしぶ教皇の命令に従ったよ。
弟子の仕事ぶりが気にくわなかったらしく、一人で作ったそうな。よっぽど駄目な弟子だったのか・・。
礼拝堂内に足場を組んで、横になって苦しい作業を続けて、1512年までの4年間をかけて創世記をテーマにした『天地創造』の大フレスコ画を完成させたよ。根性あるな~、4年かあ~。

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ローマへ呼び戻される

1506年、ミケランジェロはローマ教皇ユリウス2世にローマへ呼び戻され、教皇の墓廟を制作するよう命ぜられる。墓といっても彫刻を多数並べた巨大な構築物である。しかし多数の仕事を命ぜられたミケランジェロは、制作を何度も中断せざるを得なかった。また墓標の規模も度々変更された。墓廟の制作には40年も関わることになり、モーセ像などが制作された。

共和制のシンボル

フィレンツェではメディチ家の追放、サヴォナローラによる神制政治、サヴォナローラの失脚、新たな共和国体制、と政変が続いていた。ミケランジェロはそうした時期のフィレンツェに戻り、1501年に共和国政府の依頼で彼の代表作のひとつであるダビデ像を4年かけて制作した。ダビデ像は市庁舎(のちヴェッキオ宮)前に設置された(現在はアカデミア美術館に移され、市庁舎前にはレプリカが置いてある)。ダビデ像はフィレンツェの共和制のシンボルとなった。また、『聖家族と幼児洗礼者ヨハネ』もこのときに制作している。

『ピエタ』(サン・ピエトロ大聖堂)

ロレンツォが亡くなった1492年、ロレンツォの子で後継ぎのピエロはミケランジェロへの後援をやめた。ミケランジェロはフィレンツェを離れボローニャで3年ほど生活した。その後すぐの1496年にサンジョルジオ枢機卿がミケランジェロ作の大理石の天使を購入し、彼をローマへと招いた。ミケランジェロはローマで古代彫刻の影響を受けながら、5年の間とどまり、『ピエタ』(サン・ピエトロ大聖堂)とバッカスを作った。